今年の大河ドラマ「真田丸」。名将として名高い真田信繁(幸村)を中心に、ドラマも人気
盛り上がっていますね!
天下分け目の関ケ原から、難航不落の大阪城を巡る「冬の陣」&「夏の陣」へ。
これから始まる戦(いくさ)に備えて、戦いの舞台となった大阪を旅してみませんか?
今回は大阪環状線に乗って、戦いの舞台を回る1日旅行コースをご紹介します。
Contents
〈大阪駅〉いざ出陣!豊臣時代の大阪城、実はこんなに広かった。
【JR大阪駅】
大阪環状線は、JR大阪駅を起点に、大阪市の中心部を環状に走る路線です。
今回はこの路線を利用して、NHK大河ドラマ「真田丸」の戦い・大阪冬の陣&夏の陣の舞台となった大阪城とその周囲をめぐります。
出発前に、まずは豊臣時代の大阪城(当時の名前は「大坂城」)についてちょっと予習して行きましょう。
画像は大阪城天守閣2Fの展示パネルを現在の地図に重ねてみたもの。
現在、大阪城公園として整備されているのは本丸&二の丸。
豊臣秀吉の時代には、更にその外の三の丸と惣構(そうがまえ)の中まで含めた広大な範囲が「大坂城」でした。
惣構(そうがまえ)ってちょっと耳慣れない言葉ですが、抑えておくと「真田丸」をより深く楽しめる?!かも知れない重要キーワードです。
※惣構(そうがまえ)…城全体を取り囲む防御施設のこと。
- 北側は旧淀川(大川)が自然の堀に。
- 西惣構堀は現在の東横堀川。古代難波京の運河を掘り返したものと考えられています。
- 東惣構堀は戦前まで環状線の東側を流れていた猫間川を改修したもの。
- 南惣構堀は現在の空堀通りに沿って掘られた空堀でした。
第18回「上洛」にて、信繁の父昌幸が上洛します。
大坂城の壮大さに圧倒されながらも、何とか攻め落とせないか、と考える昌幸が、南が弱点ではないかと語っています。
もともとあった川や運河を惣構にできた北・西・東に対して、空堀を掘っただけの南側は防御としてはやや手薄だったようですね。
後に信繁は、大坂城を防衛するにあたって、弱点であった南惣構堀の外に出城を築きます。
それが「真田丸」だったという訳ですね。
〈大阪城公園駅〉難攻不落の大阪城と出世の神様・豊國神社
【JR大阪城公園駅】
JR大阪駅から、環状線(外回り)に乗って大坂城公園駅へ。
現在の大阪城は1931年(昭和6年)に竣工した鉄骨鉄筋コンクリート構造の建物で、昭和以降、各地で建てられた復興天守の中でも最も古いものになります。
徳川時代の天守閣は、現在の昭和復興天守とほぼ同じ場所にありましたが、豊臣秀吉の時代の天守閣はもっと東、現在は配水池になっている場所にあったといわれています。
また建物だけでなく石垣なども、豊臣時代の土台の上に盛り土をして徳川時代に新しく築いているため、現在目にするのはほとんどが徳川時代のものだとか。
現在では、豊臣時代の石垣は中々見ることができません。上は発掘された石垣が一般公開された時の映像です。
復興天守は五層目が豊臣時代風のデザインになっています。
内部は大阪城などについて詳しくわかる博物館。
現在は、「真田丸」第23回「攻略」で秀吉が着用していたあの派手な陣羽織のモデル「蜻蛉燕文様陣羽織(伝 豊臣秀吉所用)」も展示中。2016年10月5日までとなっているので、見たい方はお早めに!
ちなみにこの陣羽織、次にご紹介する豊國神社の豊臣秀吉像が着用している陣羽織のモデルにもなっているようです。
※写真は豊國神社公式Web公式サイトより
大阪城公園内、天守閣の南に建つのが豊國神社です。
豊臣秀吉(豊国大明神)を祭神として祀る神社は秀吉ゆかりの各地にあり、「とよくにじんじゃ」「ほうこくじんじゃ」と言われています。
ここ、大坂城の豊國神社は、明治12年京都の豊国神社(とよくにじんじゃ)の大阪別社として創建され、のちに独立。名前を豊國神社(ほうこくじんじゃ)と改め、豊臣秀頼・秀長も祀られるようになりました。
前述の秀吉像は彫刻家・中村晋也の手によるもの。明治36年に建立、昭和18年に鉄材として供出。平成19年、64年ぶりに復元されました。
足軽あるいは農民とも言われる低い身分の出自から天下人となった秀吉。
折角なので、その素晴らしい出世っぷりにあやかって、立身出世を祈願していきましょう☆
〈森ノ宮駅〉ちょっと寄り道。秀頼&千利休ゆかりの玉造稲荷神社
【JR森ノ宮駅】
広大な大坂城公園を、豊國神社からさらに南へ。公園を出てすぐに環状線の森ノ宮駅があります。
そこから電車で一駅先の玉造駅に向かってもOK。
でも時間と体力に余裕があるなら、そこから更に南に向かって玉造稲荷神社に立ち寄ってみることをおすすめします。
もともと「玉造(たまつくり)」の地名は古代に由来し、勾玉などを作っていた玉作部(たまつくりべ)が住んでいたからだという伝承があります。
その地に鎮座する玉造稲荷神社も古い由緒があり、飛鳥時代の蘇我氏と物部氏の戦いにおいて、蘇我氏の側について戦った聖徳太子が、勝利した後に観音堂を建てて祀ったのがはじまりと伝わっています。
この神社の建つ場所は、豊臣時代、大坂城の三の丸にあたる場所でした。
豊臣家の人々は大坂城の鎮守社としてここを大切にし、戦国時代に荒廃していた社殿が豊臣秀頼によって再建されています。
神社の境内には、今でも秀頼が寄進したという鳥居が残るほか、豊臣秀頼の胞衣を祀る胞衣塚大明神も合祀されています。
また、この辺りに千利休が屋敷を構えていたことから、千利休居士顕彰碑が設置されています。
この神社の恒例行事である「だんご茶会」は、当時豊臣家ゆかりの武士たちを招いて開かれていた、千利休のお点前による茶会に由来しています。
>>玉造稲荷神社
>>祭事行事(だんご茶会)
お茶券1,800円(だんご・点心付)
今年のだんご茶会は10月10日(月・祝)。
当日は裏千家の野点が行われ、だんごや点心を頂くこともできるという事ですので、当時の風流を味わってみたい方はこの日に訪れてみるのも良いかも知れません。
〈玉造駅〉「真田丸」があった場所はここ。玉造駅周辺でゆかりの地を歩く
【JR玉造駅】
森ノ宮駅から環状線で一駅の場所にあるJR玉造駅。
玉造稲荷神社へ立ち寄った方は、がんばってもう少し南に向かって歩いて下さい。
当時の大坂城南惣構のすぐ南。
真田信繁はこの地に出城「真田丸」を築き、大坂城を護るために戦ったと言われています。
この周辺は小高い丘になっており、現在は「真田山」と呼ばれています。
“真田の抜け穴”が伝わる三光神社
真田山、元の名は宰相山とも呼ばれる丘の上に建つ神社。
上古の時代・5世紀初頭創建と伝わり、武内宿禰の末裔の武川氏が代々の神職を務める由緒ある神社です。
大阪の陣の際、信繁は大阪城から真田丸に通じる抜け穴を掘って行き来したと言われ、その時の抜け穴の出口と伝えられる穴がこの周辺に幾つか残っています。
その内最も有名なもののひとつが、この三光神社の社殿の下の抜け穴です。
第5回「窮地」にて、小さな神社に隠された抜け穴に気づく信繁。
抜け穴は安土城に通じていました。
お城の中と外を結ぶ抜け穴の存在は、後の大坂城と真田丸を結ぶ抜け穴の伏線かも?
信繁の墓地が残る心眼寺
三光神社を一旦降り、南側から西へ回り込むと現れるのが心眼寺坂。
この心眼寺坂を北へ向かって下ると、坂の半ば右手に六文銭の定紋を掲げた心眼寺の山門を見ることができます。
心眼寺は元和8年(1622)、真田信繁と長男・幸昌(大助)の冥福を祈って堂宇を建立したことがはじまりで開山されています。
山号を真田山、寺の定紋は真田家の家紋と同じ六文銭です。
山門の前には「真田幸村 出丸城跡」の碑が、境内には「従五位下 真田左衛門佐豊臣信繁之墓」と刻まれた墓碑が建っています。
江戸時代の大阪は徳川幕府の直轄地だったので、徳川家に最後まで抗戦した信繁の墓を建てることができなかったようですね。
現在建っている墓碑は、「大坂冬の陣」から400年目(つまり信繁父子の400回忌)の2014年に建てられたものだそうです。
第27回「不信」にて、兄弟揃って官位を授かったものの、それが原因で仲違いしそうになった信繁と兄・信幸。
この時に信繁が授かった官位が「従五位下」。この時から信繁の正式な名前が「従五位下 真田 左衛門佐 豊臣 信繁」になったのですね。
「豊臣」の姓を名乗っているのは、この時代の武士が「苗字」とは別に「本姓」を持っていたからです。
秀吉はゆかりの武将たちに「豊臣」の姓を与えたそうですが、多くは豊臣家滅亡後に元の姓に戻したのだとか。
近年の研究では、信繁も豊臣姓を与えられていたと言われているため、この名が墓碑銘として刻まれているとのことです。
この他、心眼寺の境内には「龍馬を斬った男」として知られる見廻組隊士・桂早之助たちの墓地もありますので、幕末ファンはこちらも要チェック!
「真田丸」が建っていたのはここだ?!
残されている資料や地形などから考察し、現在、真田丸の跡地として最も有力視されているのが、心眼寺の山門から、心眼寺坂を挟んで向かいに建つ私立明星中学校の敷地なのだそうです。
これを顕彰して、今年2月明星中学テニスコート沿いの歩道に建てられたのが「真田丸顕彰碑」です。
「真田丸顕彰碑」からさらに下り、「どんどろ大師」で有名な善福寺の角で坂道は終わっています。
善福寺の北を東西に伸びる道の辺りに、かつて南惣構堀があったと言われていますが、現在その形跡を見つけることはできません。
〈天王寺駅〉信繁VS家康、最後の戦いの舞台をめぐる天王寺の旅
【JR天王寺駅】
玉造駅から再び環状線に乗り、JR天王寺駅へ。
この駅を出てすぐ北西に広がるのが天王寺公園です。
天王寺動物園・大阪市立美術館・日本庭園(慶沢園)などを擁する広大な公園ですが、「真田丸」ゆかりの地を訪れるなら、迷わず公園の北東部・茶臼山エントランスへ向かいましょう。
※ファミリーマート 天王寺公園茶臼山店を目指すとわかりやすいかも知れません。
家康・信繁が本陣を置いた決戦の舞台・茶臼山
茶臼山は、正式には茶臼山古墳と呼ばれ、五世紀に地方豪族のために造られた前方後円墳だと言われています。
1546年細川晴元の家臣・山中又三郎が山上に築いた大塚城がその後も使われ、大阪冬の陣では徳川家康が、夏の陣では真田信繁が本陣にしています。
夏の陣における最後の激戦「茶臼山の戦い(天王寺口の戦い)」の舞台となったのを最後に廃城されました。
現在は小さな広場が残るだけの静かな山頂ですが、木々の間から、夏の陣で家康が本陣を構えたとも言われる一心寺を臨むことができます。
家康ゆかりの一心寺には、酒封じの神様となった家臣の墓所も
茶臼山のすぐ北側に建つ一心寺。
宗派を問わず、納骨を受け入れるお骨佛の寺として知られていますが、大阪夏の陣において徳川家康が本陣を置いたと言われ、家康とのゆかりが深いお寺でもあります。
- 一心寺の山号「坂松山」は、家康が馬を繋いだ松の木(駒繋の松)にちなんで扁額を贈った事に由来すると伝わる。
- 関ケ原の合戦が行われた1600年、幼くして死んだ家康の八男仙千代の葬儀がこの寺で営まれ、墓所がつくられた。
- 北門近くの「霧降の松」は、信繁に追い詰められた家康が身を隠した松で、霧を吹いて家康を助けたという言い伝えがある。
- 大阪夏の陣で討ち死にした重臣・本多忠朝の墓所がある。
本多忠朝は猛将として知られる本多忠勝の次男。大阪冬の陣では酒を飲んで不覚を取り、家康に叱責されました。
そのため、夏の陣では汚名を返上しようと奮戦し、勇敢に戦った末に戦死。
死の間際に「戒むべきは酒なり」と言い残したことから、忠朝の墓所は「酒封じの神」と呼ばれ、断酒を祈願する人々が今でもお参りに訪れています。
本多忠朝は信繁の兄である信幸の正室・稲(小松姫)の弟。「真田丸」には登場するのか、登場した場合、真田ファミリーとの関係がどう描かれるかにも注目ですね。
信繁最期の地と伝えられる安居神社
一心寺の更に北側、道を一本挟んだ向かいにあるのが安居神社です。
もともとは少彦名神(すくなひこなのかみ)が祀られ、創建は不明ながら古い歴史を持つ神社です。
菅原道真が大宰府に左遷された際、ここで休息を取ったのが「安居」の名前の由来と言われています。
942年から菅原道真が祭られ、安居天満宮・安居天神などとも呼ばれるようになったと伝わっています。
家康をあと一歩のところまで追いつめた信繁ですが、多勢に無勢で討ち果たすことができず、退却を余儀なくされます。
退却中、この安居神社で休憩して負傷者の手当てをしていた所を急襲され、討ち取られたと伝えられています。
また、信繁が力尽きたと言われる松の木「さなだ松」の2代目も境内に残っています。
まとめ
大坂城を巡る攻防戦、家康と信繁が最後の激戦を繰り広げた天王寺。
大河ドラマでも物語のクライマックスになることが予想されるだけに、今から盛り上がりが楽しみですね。
天王寺周辺には、ディープな大阪の雰囲気と本場の串カツが楽しめる通天閣&新世界や、地上300mの眺望を誇るあべのハルカスもあります。
この秋、 決戦の舞台を実際に見て、来るべきクライマックスに備えてみませんか?
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